「法要に遇う」ということの意義
私は龍善寺にご縁を頂く以前は、京都の東本願寺で事務職員として、
参拝者の応接を行う部署に勤めていました。
そこには当然のことながら、多くの方がお参りに来られます。
今回は、中でも大変印象深く記憶に残っている参拝者の方のお話をさせて頂きたいと思います。
その方は、若くしてご主人をなくされた奥様でした。
主人の命日が近いので、と申し込みをされたお経のご案内の時の話です。
読経を行う僧侶の声が響く中、こぼれ出る涙をハンカチで拭いながらお経を聞いていらっしゃいました。
若くして亡くされたご主人を思って泣いているのかな、などと考えながら、涙を拭うその姿を視界の端に収めていたのを覚えています。
読経が終わるや、その方が私に声を掛けて下さいました。
「読経中に涙を流してしまってすみません――」
「けれど、主人を失ったのが悲しくて泣いていたのではありません。
主人は、私が仏様の教えに触れるご縁を与えてくれた、そのことが嬉しくてありがたくて、自然と涙が流れてしまったんです」
そして、その方はこう言葉を続けられました。
「私のもとまで仏さまの教えを届けてくれた。それはきっと仏さまとしての働きでしょう。
主人は仏さまとして、今も私に願いをかけてくれているんですね」
これこそが、お経に遇うということの大切な意義なのでしょう。
お経とは、亡き方を供養し、慰め、冥福を祈るための呪文ではありません。
自らが人生の矛盾に苦悩しながらも、これを乗り越えて行かれたお釈迦さまが、我々に向けて発して下さった尊いメッセージなのです。
そして、浄土真宗でのお勤めは、報恩の行であるとも言われます。
仏さまの教えを私のもとまで届けてくれた、亡き方への感謝の行いでもあるのです。
まさにこの若い奥様が、ご主人の死を通して気付かれたその事実そのものが、お経にということの本来の意義だったのです。
そして、このことに気付かせて下さったのが、亡き大切なご主人だったということでしょう。
もちろんこうしたことは、お参りの皆さんに日ごろからお伝えしていたことはありますが、
この若い奥様の姿を通して、痛烈に我が身が問い返された心地がしたのを覚えています。
仏さまのお話をするその折に触れ、涙を拭うその姿を思い起こして、我が身に問いかけていきたいと思います。
合掌
副住職 磯越裕栄